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FPの知識や本から学んだことのアウトプット

多様性という言葉の弊害

多様性って一体なんだろう?

 

人それぞれに人生のストーリーがあって、いろんな価値観や世界観がある。

 

その考え方や生き方を他人が否定したり、異なった考え方を強制して良いものでもない。

 

しかし、多用性って言葉が1人歩きしてしまい、分かり合えない事が増えてる気がする。

 

「人それぞれだから」といい、距離を取り合ってしまたったり、他人の考えと自分の考えのズレを「仕方のないもの」として、簡単に処理してしまう。

 

なんとなく、アドラー心理学の"課題の分離"とごちゃ混ぜになってる気さえする。

#アドラー心理学は心理学ではない

 

本当の多用性とは、考え方のズレに対して、ぶつかり合って、許し合い、認め合う事ではないのだろうか。

 

少なくとも、相手に気を遣って自分の意見を押し殺すことではない。

 

人間関係は本気で向き合わないと分かり合えない事の方が多い。 #家族でさえわからない事だらけ #全てをわかる必要はないとも思う

#共感性を主張する多様性ユーザーほどうざいものはない

 

多様性という言葉に支配されて、人間関係が希薄にならないように、大切な人ほどちゃんと向き合えるような付き合い方をしたい。

 

時間を奪うコミュニケーション

最近、色々な方とお話しさせて頂く機会があり、今までの自分を反省できる"気づき"があった。

それはコミュニケーションには快適さがあるということ。f:id:samataeisuke0915:20230510121955j:image

会話やLINEのやりとりをしていて、「ん?」って感じたり、「このやりとり早く辞めたいな」って感じる時もあれば、すごく会話がスムーズであっという間に時間がたってしまったり、終わったあとモチベーションがあがるコミュニケーションもあった。

ここにはどんな差があるのか考えてみて、自分なりに二つの答えを出せた。

それは①『相手(価値観)の知ろうとすること』と②『相手の時間を意識すること』だ。

これらの二つは質問の内容で顕著に現れる。

①に関しては、コミュニケーションを取る上で相手について興味を持つことは重要であるって言葉で聞けば当たり前って思えるが、自分自身も含めて出来ていない人の方が多いと思う。

政治について全く興味ない人に、政治について聞いたり、ダイエットしてる人に流行りのスイーツの話題をふっちゃうなど。

今の時代、相手が何に興味があるかなんて、いくらでも調べることが出来るのに、それをしないというのは、相手に「あなたのこと興味ないですよ」って言ってるようなもの。

 

逆にここを押さえている人との会話、少ないワードでもやり取りが成立して話がどんどん進む。

②に関しては、「それググればすぐ出るけど」ってことを平気で質問してしまう。

結局、聞かれた立場としても、間違ったこと伝えられないので、再確認して調べてから回答している。

ググったことで知識が定着したというポジティブな考えは抜きにすると、なんでこの人の為にググっているのだろう?って感じてしまった。

僕自身、精通している人に聞くと早いと思って、ろくに調べもせずにすぐ質問してしまうことが多々あった。

振り返ってみると、その相手の時間をいたずらに奪っていたと、ものすごく反省する機会になった。 (*個人的に人の時間を奪うのは、暴力よりタチが悪いと思っている。暴力は罰せられるけど、人の時間を奪う行為は犯罪にならないことの方が多いから。)

こちらもしっかり押さえている人は事前に調べてから、ファクトではなく考察についての質問をくれる。

考察についての質問は、その問について考えるだけで、ものすごく勉強になる。

いずれにしても時間は大切。

残された時間をどのように使っていくかを考えることが人生なのかなと思った。

この気づきはこれからの自分に役立つし、大切な人を不快にさせないためにも、肝に銘じておこうと思う。

遅すぎるかもしれないが、今気づけて良かった。

人脈という言葉の違和感

『人脈』 僕はこの言葉を多用している人に違和感を感じる。

なぜなら、この言葉には、人間関係にまつわる利己的な感情が見え隠れしているから。

 

「あの人は顔が広い」「誰かとつながれるかもしれない」「あのときの借りがある」などと、意味も目的もなく人とつながり、ネットワークを広げている感じが垣間見えてしまう。

 

もちろん人との繋がりは大切なのは言うまでもない。

 

しかし、それは僕たちが日々、人ではなく情報と出会っているからである。 自分と他人が持っている情報が交錯することで、新しいアイデアが生まれるし、そこに緊張感も生まれる。

 

人脈だけをがんばって広げていても、そんなものはなんの役にも立たないし、自分の価値も高めない。

 

それでは、自分に刺激を与えてくれる本物の情報に出会うためには、どうすればいいのか?

 

それは、もし会ってみたいなら相手がいるなら、その相手のことを事前に良く知っておくこと。

 

今はSNSなどいくらでも相手の考えや求めているものなんて知る事ができる。

 

会う前から相手のことを熟知しているからこそ、なにかの機会で会ったときに、相手の求めている情報をピンポイントで提供することができる。

 

そうすれば、過去の武勇伝など自分アピール中心のコミュニケーションではなく、お互いに密度の高い情報のやりとりが生まれる。

 

会話しているだけで新しい面白いアイデアが生まれてくる。

 

もし、これがビジネスなどの場であれば、生み出そうとしている商品やサービスのクオリティーにも直結していく。

 

意味のない人脈なんて、求めるのをやめよう。

 

本当に価値のある情報を得るためには、ただ人と繋がるだけでなく、その人のことを事前に良く知ることが重要です。

 

SNSなどを利用して相手が求めている情報や考え方を理解することで、会う前から相手に対する適切なアプローチができるようになります。

 

そうすれば、お互いに密度の高い情報交換ができ、新しいアイデアや可能性が生まれます。

 

ただ人脈を広げるだけではなく、相手との繋がりに本質的な意味を見出し、相手にとっても自分にとっても有益な関係を築くことが大切です。

借金の二つの顔

 

借入には2つの側面がある。

多くの人は借金をしたくないと考える。

経営者であっても借金はしたくないと考える人が多いらしい(経営情報紙に書いてあった)。

そこにものすごく違和感を感じた。

そこで借金を『時間』との関係で考えてみる。

「時間を買う」借入と「時間を提供する」借入の2週類があると思う。

まず時間を買う借入とはどういうものか?

設備投資をして事業を拡大する、事業のアイデアには有効期限があるのでその前に着手する、一気にサービスを大きく広げる、時限的な補助金のような機会を最大限に活用する、PCを買ってアプリ開発事業を始める。

など、手許資金では出来ない事を可能にする。 アルバイトをしてPC購入のお金がたまってから、アプリ開発を始めるなど、コツコツ貯めてから始める、では機会損失がありえる。

つまりお金をはらって時間を買うということ。

近いのは満員電車で、余分に払ってグリーン車両にのってそこで生まれた時間を自己投資(読書する)に回す感覚に近い。

一方時間を提供する借入とはどういうものか? 1番わかりやすいのは家や車を購入する為の借金。

これらは、自分のこれからの時間を提供することになる場合が多い。

例えば家をローンで買って、その返済のために働く。

それが意味することは、これから築いていく資産のポートフォリオのほとんどを不動産の投資に使ってしまうということになる。

もちろん時間を買う借入にも返済があるが、そこには大きな差がある。

その差は借金して手にした対価が、かけたコスト以上のお金を生むか?それともマイナスなってしまうか?というもの。

*財務的に考えると、 ROIC(投下資本利益率)−WACC(加重平均資本コスト)がプラスかゼロ未満か。

そこから学んだことは、借金には①時間を買う借入と②これからの時間を提供する借入の2つがあるということ。

過度に借金に抵抗を示してしまうと、今後の可能性を限定してしまうことになりかねないので、借金を拒絶するのではなく、その借金で『資産』を 買うのか、『負債』を買うのかを考えるのが重要だと思う。

 

無駄な時間がくれるもの

子ども達が遊んでいる姿を見ていると、一緒に何かをする時も有れば、各々で好きなことをして遊んでいる時もあった。

親の目線で見ると、せっかく久しぶりに一緒にいるのだから、一緒になって遊べば良いのにと思ってしまう。

しかし子ども達は違うことをしていても、一緒に遊んでいると感じているらしく、「また一緒に遊びたい」という。

多分、子供にとって一緒に何かをすることではなく、ただ一緒にいることが重要なのだろう。

一見、ムダに見える時間の蓄積が子供どうしの関係では、とても大事なことなのかもしれない。

一方で大人の付き合いには、ムダを省こうという風潮がとても強く感じる。

「自分の人生を最大限生きよう」「効率的な時間の使い方をしよう」「ムダなことに時間をかけてはいけない」みたいなことがしきりに叫ばれている。

だから、自分自身もそうであったが、人と会っている時や何かに取り組んでる時に、そこから『何かしらを得よう』と常に考えてしまっていた。

一緒に何をするか、どのような話をしたかが重要になってしまっている。

飲み会でさえ、zoomで行うと、何かしらの成果を求めてしまう気がする。(せっかくzoomで時間をあわせているのだから、楽しまなければいけない。みたいな。)

つまり目的をもって人とのコミュニケーションをとってしまっているということ。

その考え方も正しいと思うし、時間が大切ということは100%同意だが、それだけだと窮屈に感じてしまう。

隣に座ってボッーとしたり、生産性もない雑談をしたり、一緒に海を眺めたり、喧嘩したり。

そういったムダに思える時間こそ、変化の激しい今の時代に必要ではないのだろうか?

そういった時間から家族の愛や仲間の絆を感じ取れるのではないか?

何かを協力し達成することで築ける信頼関係もあれば、目的もなく時間を経過させ、ムダな時間を共有することで築ける深い絆もある。

今自分がムダな時間を提供できている相手って誰だろう?

自分のためにムダな時間を使ってくれている人って誰だろう?

大切な人をより大切に思えるように、一緒に過ごせるムダな時間を愛おしく、大切に感じられるように生きていきたい。

大人社会においては、時間を効率的に使うことが重要視されますが、それだけに「ムダな時間」を過ごすことに疎くなってしまっている傾向があります。

しかし、子どもたちの遊びを見てもわかるように、ただ一緒にいる時間こそが大切なのかもしれません。

人との関係性を深めるためには、単に目的を果たすことだけでなく、ムダな時間を共有することも必要だということを改めて考えてみると良いでしょう。例えば、家族や友人と一緒に何もしないでただ過ごす時間も大切です。

そういったムダな時間こそが、家族や友人との絆を深め、心の豊かさをもたらしてくれるのかもしれません。

大切な人との時間をより愛おしく感じられるように、ムダな時間を提供したり、ムダな時間を共有することを大切にしましょう。

GIVEの時間的価値

 

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この世界は貸し借りで成り立っている。

おそらく、ほとんどの人は返せていない。

多くの人は少ない支出で多くを得ようとしている。 だからうまくいかないのだと思う。

基本的には世の中は等価交換で成り立っている。

それはお金に限った話ではない。

提供できるリソースは、お金、時間、能力(成果物)であり、これらは密接な関係がある。

これらをいかに提供できるかが重要なのだと思う。 基本的には与えた以上には返ってこない。

しかし、ここで考えるべきは提供するリソースにも時間的な価値があるということだと思う。

今もらえる100万円と、5年後にもらえる100万円があるとしたら、おそらくみんな今もらうはずだ。

これが今もらえる100万円と1年後にもらえる105万円だと、答えは多少変わってくる(人によって答えは違うと思うが)。

要するにお金には時間的な価値が確実に存在する。 これはお金に限った話ではない。

数値で表せなくても、そこには確実に時間的な価値がある。

つまりギブアンドテイクを考えた時、先に何かを得た場合、同等のギブだと成り立たないということ。 身近にいる、すごいなぁーと思う人たちはここら辺の感覚が研ぎ澄まされている気がする。

自然に、息をするようにギブを繰り返すし、返す時は大きく返す。

つまり上手くいっている人たちは、少し早くギブをするか、大きく返すを繰り返している。

彼らは常にリソースを提供することに集中し、それが彼らの成功の秘訣の一つであると思われます。

また、彼らは与えることに喜びを感じ、それが彼らの行動の原動力となっています。

しかし、与えすぎると自分自身を犠牲にすることになりますので、バランスを保つことも重要です。

つまり、自分が提供できるリソースを見極め、そのリソースを効果的に使って相手に貢献することが重要です。そして、相手が返してくれたものに対して、大きく返すことで関係性を深めていくことができます。

このような関係性は、お金や時間、能力の提供だけでなく、感情や思いやりの提供にも当てはまります。

何者でもない、大きく返せない自分はいかに先にギブを繰り返せるかを考え行動していこう。

『なぜ』の持つ問題点

インサイトという本を読んで『なぜ』のもつ問題点を知った。 最近の一番の学びであり、これまでの自分を猛烈に反省した。

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昔からすぐ「なぜ」って考えてしまう癖がある。 しかも、その癖は自分にとってプラスになる事だと思っていた。

しかし「なぜ」には成長を妨げる3つの問題点がある。

1つ目は、人が「なぜ」を問うとき、つまり、自分の思考、感情、行動の原因を検証する時、1番簡単でもっともらしい答えを探してしまうという点。 例えば遅刻をしてしまった際に、遅刻の理由を電車が遅れたからという理由づけで済ませて、多くの場合、そこで考えることをやめてしまう。

大事なのは「何」をすれば遅刻をしなかったかを考え、「一本前の電車に乗ろう」などの改善策を考えることにつなげること。

2つ目は「なぜ」と問うと、サボりがちな脳に私たちをミスリードさせてしまう可能性があるということ。

例えば、パートナーとの関係性を聞かれたとき、直前に一緒に楽しい旅行に行っていたりすると、実際より良い評価で説明してしまったり、逆にケンカをしていたりすると、実際より悪い評価で説明してしまう。

これは親近性効果というらしい。 また「なぜ」と問うことで、決断の質をも低下させる可能性がある。 ある研究では、バスケットボールの専門家を自認する人々に、学生の全国トーナメントの結果を予想してもらうという実験があり、半数は事前に理由を分析してから予想してもらい、もう半数はたんに予想だけを問うというもの。

驚くべきことに、考えてから選択した人々の方が、そうでない人に比べて優勝するチームを予想する割合が低かった。

つまり物事を考え過ぎてしまうと、専門知識もすっかり役に立たなくなってしまうということ。

そして、「なぜ」と問うことが破壊的なことである

最後の理由は、精神衛生に与える悪影響である。

例1)知能テストで不合格となったイギリスの大学生たちに、なぜ今のような気分になっているか書くよう指示すると、対照群に比べて、そうした学生は直後から落ち込みが大きく、12時間後でさえも同じ傾向が続いているという。

原因を考え始めたことで、健康的で生産的な方法で前進するのではなく、問題にこだわって自分を責めてしまっていた。

例2)二人の評価者が学期の初めに受けた「社交性、好感度、人を惹きつける力」に関するテストの評価をするというもので一人の評価者はポジティブに、もう片方はネガティブな評価をするという実験。

そして正確性を判定する前に、ある参加者たちは「なぜ」自分が今のような自分であるかについて考える時間を持たされ、別の参加者たちは、自分が「どんな」人間であるかを考える時間を持たされた。

「なぜ」と考えさせれた学生はネガティブな評価に抵抗を示し、評価を受け入れたり、検討することもなく、「評価を否定する為に理屈づけし、自分を正当化し、間違っている理由を探そう」としていた。 一方「どんな」と考えさせられた学生は反対にネガティブな評価を受け入れることが多く、自分をより良く理解する手助けになるかもしれないと考えた。

ここでの教訓は「どんな/何」と問うことによって、自分についての新たな情報を発見することに対してオープンになれるということ。

たとえ、その情報がネガティブなものであったり、今自分が信じていることに反するものであっても。「なぜ」と問うことはその正反対の影響がある。 「なぜ」から「何」への変化は、被害者意識から成長への変化であり、そして感情に名前をつけることを迫るものということ。

例外としては、ビジネス上の難題を切り抜けたり、チームや組織の問題を解決しようとする際は、「なぜ」と問うことが重要。

プロジェクトの失敗や製品の改善などのさいは失敗の原因を知る必要があるからである。

つまり「なぜ」という問いは基本的に自分の周りを理解する際に役立ち、「何」という問いは基本的に自分を理解する際に役立つということ。 この「なぜ?」と「何?」を分けて考える習慣は今後ものすごくプラスの影響を与えてくれると思うし、今知れて、過去の自分を反省するきっかけになって良かった。 ものすごくいい本だけど、読むのに時間がかかる。