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FPの知識や本から学んだことのアウトプット

人脈という言葉の違和感

『人脈』 僕はこの言葉を多用している人に違和感を感じる。

 

なぜなら、この言葉には、人間関係にまつわる利己的な感情が見え隠れしているから。

 

「あの人は顔が広い」「誰かとつながれるかもしれない」「あのときの借りがある」などと、意味も目的もなく人とつながり、ネットワークを広げている感じが垣間見えてしまう。

 

もちろん人との繋がりは大切なのは言うまでもない。

 

しかし、それは僕たちが日々、人ではなく情報と出会っているからである。 自分と他人が持っている情報が交錯することで、新しいアイデアが生まれるし、そこに緊張感も生まれる。

 

人脈だけをがんばって広げていても、そんなものはなんの役にも立たないし、自分の価値も高めない。

 

それでは、自分に刺激を与えてくれる本物の情報に出会うためには、どうすればいいのか?

 

それは、もし会ってみたいなら相手がいるなら、その相手のことを事前に良く知っておくこと。

 

今はSNSなどいくらでも相手の考えや求めているものなんて知る事ができる。

 

会う前から相手のことを熟知しているからこそ、なにかの機会で会ったときに、相手の求めている情報をピンポイントで提供することができる。

 

そうすれば、過去の武勇伝など自分アピール中心のコミュニケーションではなく、お互いに密度の高い情報のやりとりが生まれる。

 

会話しているだけで新しい面白いアイデアが生まれてくる。

 

もし、これがビジネスなどの場であれば、生み出そうとしている商品やサービスのクオリティーにも直結していく。

 

意味のない人脈なんて、求めるのをやめよう。

借金の二つの顔

借入には2つの側面がある。

多くの人は借金をしたくないと考える。

経営者であっても借金はしたくないと考える人が多いらしい(経営情報紙に書いてあった)。

そこにものすごく違和感を感じた。

そこで借金を『時間』との関係で考えてみる。

「時間を買う」借入と「時間を提供する」借入の2週類があると思う。

まず時間を買う借入とはどういうものか?

設備投資をして事業を拡大する、事業のアイデアには有効期限があるのでその前に着手する、一気にサービスを大きく広げる、時限的な補助金のような機会を最大限に活用する、PCを買ってアプリ開発事業を始める。

など、手許資金では出来ない事を可能にする。 アルバイトをしてPC購入のお金がたまってから、アプリ開発を始めるなど、コツコツ貯めてから始める、では機会損失がありえる。

つまりお金をはらって時間を買うということ。

近いのは満員電車で、余分に払ってグリーン車両にのってそこで生まれた時間を自己投資(読書する)に回す感覚に近い。

一方時間を提供する借入とはどういうものか? 1番わかりやすいのは家や車を購入する為の借金。

これらは、自分のこれからの時間を提供することになる場合が多い。

例えば家をローンで買って、その返済のために働く。

それが意味することは、これから築いていく資産のポートフォリオのほとんどを不動産の投資に使ってしまうということになる。

もちろん時間を買う借入にも返済があるが、そこには大きな差がある。

その差は借金して手にした対価が、かけたコスト以上のお金を生むか?それともマイナスなってしまうか?というもの。

*財務的に考えると、 ROIC(投下資本利益率)−WACC(加重平均資本コスト)がプラスかゼロ未満か。

そこから学んだことは、借金には①時間を買う借入と②これからの時間を提供する借入の2つがあるということ。

過度に借金に抵抗を示してしまうと、今後の可能性を限定してしまうことになりかねないので、借金を拒絶するのではなく、その借金で『資産』を 買うのか、『負債』を買うのかを考えるのが重要だと思う。

無駄な時間がくれるもの

子ども達が遊んでいる姿を見ていると、一緒に何かをする時も有れば、各々で好きなことをして遊んでいる時もあった。

 

親の目線で見ると、せっかく久しぶりに一緒にいるのだから、一緒になって遊べば良いのにと思ってしまう。

 

しかし子ども達は違うことをしていても、一緒に遊んでいると感じているらしく、「また一緒に遊びたい」という。

 

多分、子供にとって一緒に何かをすることではなく、ただ一緒にいることが重要なのだろう。

 

一見、ムダに見える時間の蓄積が子供どうしの関係では、とても大事なことなのかもしれない。

 

一方で大人の付き合いには、ムダを省こうという風潮がとても強く感じる。

 

「自分の人生を最大限生きよう」「効率的な時間の使い方をしよう」「ムダなことに時間をかけてはいけない」みたいなことがしきりに叫ばれている。

 

だから、自分自身もそうであったが、人と会っている時や何かに取り組んでる時に、そこから『何かしらを得よう』と常に考えてしまっていた。

 

一緒に何をするか、どのような話をしたかが重要になってしまっている。

 

飲み会でさえ、zoomで行うと、何かしらの成果を求めてしまう気がする。(せっかくzoomで時間をあわせているのだから、楽しまなければいけない。みたいな。)

 

つまり目的をもって人とのコミュニケーションをとってしまっているということ。

 

その考え方も正しいと思うし、時間が大切ということは100%同意だが、それだけだと窮屈に感じてしまう。

 

隣に座ってボッーとしたり、生産性もない雑談をしたり、一緒に海を眺めたり、喧嘩したり。

 

そういったムダに思える時間こそ、変化の激しい今の時代に必要ではないのだろうか?

 

そういった時間から家族の愛や仲間の絆を感じ取れるのではないか?

 

何かを協力し達成することで築ける信頼関係もあれば、目的もなく時間を経過させ、ムダな時間を共有することで築ける深い絆もある。

 

今自分がムダな時間を提供できている相手って誰だろう?

 

自分のためにムダな時間を使ってくれている人って誰だろう?

 

大切な人をより大切に思えるように、一緒に過ごせるムダな時間を愛おしく、大切に感じられるように生きていきたい。

GIVEの時間的価値

この世界は貸し借りで成り立っている。

おそらく、ほとんどの人は返せていない。

多くの人は少ない支出で多くを得ようとしている。 だからうまくいかないのだと思う。

基本的には世の中は等価交換で成り立っている。

それはお金に限った話ではない。

提供できるリソースは、お金、時間、能力(成果物)であり、これらは密接な関係がある。

これらをいかに提供できるかが重要なのだと思う。 基本的には与えた以上には返ってこない。

しかし、ここで考えるべきは提供するリソースにも時間的な価値があるということだと思う。

今もらえる100万円と、5年後にもらえる100万円があるとしたら、おそらくみんな今もらうはずだ。

これが今もらえる100万円と1年後にもらえる105万円だと、答えは多少変わってくる(人によって答えは違うと思うが)。

要するにお金には時間的な価値が確実に存在する。 これはお金に限った話ではない。

数値で表せなくても、そこには確実に時間的な価値がある。

つまりギブアンドテイクを考えた時、先に何かを得た場合、同等のギブだと成り立たないということ。 身近にいる、すごいなぁーと思う人たちはここら辺の感覚が研ぎ澄まされている気がする。

自然に、息をするようにギブを繰り返すし、返す時は大きく返す。

つまり上手くいっている人たちは、少し早くギブをするか、大きく返すを繰り返している。

何者でもない、大きく返せない自分はいかに先にギブを繰り返せるかを考え行動していこう。

『なぜ』の持つ問題点

インサイトという本を読んで『なぜ』のもつ問題点を知った。 最近の一番の学びであり、これまでの自分を猛烈に反省した。 昔からすぐ「なぜ」って考えてしまう癖がある。 しかも、その癖は自分にとってプラスになる事だと思っていた。 しかし「なぜ」には成長を妨げる3つの問題点がある。 1つ目は、人が「なぜ」を問うとき、つまり、自分の思考、感情、行動の原因を検証する時、1番簡単でもっともらしい答えを探してしまうという点。 例えば遅刻をしてしまった際に、遅刻の理由を電車が遅れたからという理由づけで済ませて、多くの場合、そこで考えることをやめてしまう。 大事なのは「何」をすれば遅刻をしなかったかを考え、「一本前の電車に乗ろう」などの改善策を考えることにつなげること。 2つ目は「なぜ」と問うと、サボりがちな脳に私たちをミスリードさせてしまう可能性があるということ。 例えば、パートナーとの関係性を聞かれたとき、直前に一緒に楽しい旅行に行っていたりすると、実際より良い評価で説明してしまったり、逆にケンカをしていたりすると、実際より悪い評価で説明してしまう。これは親近性効果というらしい。 また「なぜ」と問うことで、決断の質をも低下させる可能性がある。 ある研究では、バスケットボールの専門家を自認する人々に、学生の全国トーナメントの結果を予想してもらうという実験があり、半数は事前に理由を分析してから予想してもらい、もう半数はたんに予想だけを問うというもの。 驚くべきことに、考えてから選択した人々の方が、そうでない人に比べて優勝するチームを予想する割合が低かった。 つまり物事を考え過ぎてしまうと、専門知識もすっかり役に立たなくなってしまうということ。 そして、「なぜ」と問うことが破壊的なことである最後の理由は、精神衛生に与える悪影響である。 例1)知能テストで不合格となったイギリスの大学生たちに、なぜ今のような気分になっているか書くよう指示すると、対照群に比べて、そうした学生は直後から落ち込みが大きく、12時間後でさえも同じ傾向が続いているという。 原因を考え始めたことで、健康的で生産的な方法で前進するのではなく、問題にこだわって自分を責めてしまっていた。 例2)二人の評価者が学期の初めに受けた「社交性、好感度、人を惹きつける力」に関するテストの評価をするというもので一人の評価者はポジティブに、もう片方はネガティブな評価をするという実験。そして正確性を判定する前に、ある参加者たちは「なぜ」自分が今のような自分であるかについて考える時間を持たされ、別の参加者たちは、自分が「どんな」人間であるかを考える時間を持たされた。 「なぜ」と考えさせれた学生はネガティブな評価に抵抗を示し、評価を受け入れたり、検討することもなく、「評価を否定する為に理屈づけし、自分を正当化し、間違っている理由を探そう」としていた。 一方「どんな」と考えさせられた学生は反対にネガティブな評価を受け入れることが多く、自分をより良く理解する手助けになるかもしれないと考えた。 ここでの教訓は「どんな/何」と問うことによって、自分についての新たな情報を発見することに対してオープンになれるということ。たとえ、その情報がネガティブなものであったり、今自分が信じていることに反するものであっても。「なぜ」と問うことはその正反対の影響がある。 「なぜ」から「何」への変化は、被害者意識から成長への変化であり、そして感情に名前をつけることを迫るものということ。 例外としては、ビジネス上の難題を切り抜けたり、チームや組織の問題を解決しようとする際は、「なぜ」と問うことが重要。プロジェクトの失敗や製品の改善などのさいは失敗の原因を知る必要があるからである。 つまり「なぜ」という問いは基本的に自分の周りを理解する際に役立ち、「何」という問いは基本的に自分を理解する際に役立つということ。 この「なぜ?」と「何?」を分けて考える習慣は今後ものすごくプラスの影響を与えてくれると思うし、今知れて、過去の自分を反省するきっかけになって良かった。 ものすごくいい本だけど、読むのに時間が

時間を大切にするということ。

人生で大切にしているものはなんだろうか? 家族、健康、お金、仕事。

 

人 それぞれ、さまざまあると思う。

 

その中で大切なはずなのに、何故かないがしろにされているものが「時間」だ。

 

時間はまさに命そのものであるはずなのに多くの場合、「お金」の価値が「時間」の価値を上回ってしまう。

 

例えば、クリーニング代がもったいないと思い、1時間かけて自分でワイシャツにアイロンをかける。

 

アイロンがけをしている時間がすごく好きという場合を除き、自分の1時間の価値をクリーニング代より安く見積もるということになる。

 

時間さえあれば、いくらでも思考して行動できるし、大切な人と時間の共有も出来る。

 

時間があるからこそ、人生で本当にやりたいことをして生きていくことができる。

 

時間をお金で買うことができるなら迷わず支払えるようになりたい。

 

どんな人であっても、過ぎ去った時間だけは取り戻せない。

 

これが人生の真実だ。

 

もし、本当に自分の人生を全うしたいのなら、まずは時間を大切にすること。

 

何歳であっても、自分に与えられている時間を限界まで活かし、精一杯使い切ることでしか、充実した人生を生きる方法はない。

 

真剣に時間と向き合おう。

 

いまやっていることが、命をかけてまでやりたいことなのかを自分に問おう。

 

やりたくないことは、すぐにやめよう。

 

自分の時間を大切にすれば、他人の時間も尊重できるはず。

FREEとプレミアム会員

2009年クリスアンダーソンのFREEが販売されてから、10年間フリーは素晴らしいものだと賞賛されてきた。 まず世の中のフリーのものを考えてみると。 YouTubeはもちろん、Googleの検索やマップ、ネットでの本の無料公開(一部)、アナログで考えれば、試供品や試食、懸賞のお客様プレゼントなど。これらはマネタイズを後ろにずらすこと(マネタイズの対象を変えたり)で成り立ってきた。 具体的には試供品をもらった人がその商品を買ったり、Kindleで無料で読んだ人がその作者の別の本を購入したり、Googleアフィリエイトであったり、YouTubeに関してはいつの間にか広告が入るようになっていた。 デジタルに関して言えば、フリーの考えがもたらしたことは、『可処分所得』の奪い合いから『可処分時間』の奪い合いへと概念を変えたということだと思う。 その考えはこの10年間のビジネスの基本的な物だったのは疑いようが無い。 しかし、ネットフリックスやAmazon primeなどサブスクモデルの登場により、映像は有料化した。 まだ、この時点では良質な映像は有料である(通わなくていい借り放題のレンタルビデオ店)くらいにしか考えていなかった。 しかしYouTubeのプレミアム会員制度により、僕たちは広告を見る行為がフリーではないと認識してしまった。 要するに無料だからといって無闇やたらに人の時間を奪ってはいけないと気付かされた。 この時点で単純な可処分時間の奪い合いではなくなってしまったわけだ。 それを踏まえて、サービスの提供者はどうすればいいのだろうか? 考えるべきは「何に」もしくは「誰に」、時間(お金)を使いたいかを認識させることだと思う。 「何に」は機能や品質の高さが重要になってしまうので、これは大企業や一流の人にはとうてい、敵わない。 つまり、これからはサービスや商品を提供する為に、今まで以上に人と人の付き合いや、サービス提供者の共感できるバックボーンなどが大切になってからのだと思う。 良い機能や高品質はすぐに一般化されてしまう世の中は「機能検索」から「ヒト検索」になる。 その為に、検索される(何か買いたい時、思い出される)人になる必要があると思う。